
凪 nagi - 木村 尚樹
図書館本
ほとんどの写真はどこか生々しく、あるいは軽々しく、
ともに暮らしたいとは思えなかった。
(…)
「アートとしての写真」がある暮らしを届けたいと願った。(凪の記憶)
モノクローム写真集
永遠=凪
フランスの写真家、プルーストは言った。
物事の真意とは目に見える範囲のものではなく、
感性もまた情報の蓄積によってもたらされたものではないと。
私たちは、記憶に基づく「芸術」作品として、人生を認識しているのだ。(ラファエル・ヴィニオリ 建築家)
ほとんどの写真はどこか生々しく、あるいは軽々しく、
ともに暮らしたいとは思えなかった。
(…)
「アートとしての写真」がある暮らしを届けたいと願った。(凪の記憶)
フランスの写真家、プルーストは言った。
物事の真意とは目に見える範囲のものではなく、
感性もまた情報の蓄積によってもたらされたものではないと。
私たちは、記憶に基づく「芸術」作品として、人生を認識しているのだ。(ラファエル・ヴィニオリ 建築家)
そこにたどりつこうとあせってはいけない。
「そこ」など、どこにもないのだから。
本当にあるのは「ここ」だけ。
今という時にとどまれ。
体験をいつくしめ。
一瞬一瞬の不思議に集中せよ。
それは美しい風景の中を旅するようなもの。
日没ばかり求めていては
夜明けを見逃す。(p133)
たとえ
空が どすぐもりでも
ええように
いつも自分で晴れとけ
空にたよるな
空は空(p167)
しあわせは
照れ屋です、きっと。
(…)
見つけられるのを
待っているはず。
たとえば、
さよならの日が、
はじまりの日であるように。
それから逃げたかった。
インドという国は体力の国だ。(p296)
その眼のことは、忘れないでおこうと僕は思った。何を食べ、どこに行ったかを忘れてもそれだけは覚えておこうと思った。(p127)
人々は少なからず個人主義的な考え方をする。でも、他者もまた自分と同じようにこの街で暮らしている、という意識が、人々の間に不思議な連帯感を生んでいるようにみえる。
(…)
自分たちの家を実際より良く見せようとすることも、何かを隠すこともなかった。
(…)
ニューヨークにはたくさんのものがある。
でも実際に手に入るものはそれほど多くはない。
本当に必要なものは何か、
考えられた生活はシンプルで楽しい。(おわりに〜「共に住む」ために〜)
パリの一軒家。そう聞くとパリジャンたちも目を丸くして驚くかもしれません。パリ市内で家を構えると言うのは、それくらい珍しいこと。(p5)
ハシビロコウは、年齢によって目の色が変わります。若いうちは、瞳の色が金色で、高齢になるに従い青色に変化します。(p56)
そんな"一枚の写真"は、デジタルな時代にあっても、
"実体のあるもの"なのです。
同時に、あなたが大切に思っていることが、実体を持って現れる瞬間でもあります。(p249)
無言劇
向う側にも回ってみたが、看板ではなかった。ただこういう物だった。京都。 03・10(p7)
ハッとした。作家が作らなくても、世の中には知らずに出来てしまった妙な物件がある。そう気がついてから、街を探し歩くのが面白くなった。自分で作るのではなく、見て歩いて見つけるのだから、記録するのにカメラが必要となる。(p38)
路上観察をひと通りやって、意味のパターンが出揃ってしまったということがある。それでもまだ撮るのが好きでやっていると、意味よりも味に引かれてくるのだ。何となくと言う、その「何となく」のところに分け入ってみたくなるのだ。
でもそういう写真を仲間に見せても、
「それはただの芸術じゃないの」
となってしまう。つまり人には面白くもないというわけである。でもそれではあんまりなので、そこにある風情を取り上げて、そういう写真をただ「風情」と呼ぶようになった。(p56)
世界の中心
許可を得て、原爆ドームの直下に立つ。人間の脊髄のトンネルを、中から見上げるようだった。広島。 02・4 (p11)
それを眺めていると、まったく同じ風景を、まったく同じ角度から、僕らは本当に異なった目で眺めていたのだなあとあらためて感心することになる。当たり前のことなのだけれど、文章には文章のパーソナリティーがあり、写真には写真のパーソナリティーがある。(p010)
レンズを通して見えているのは、皮膚で覆われた肉体のほんの一部にすぎないという思いだ。誰かを撮りながらそのように思うことは初めての体験だった。身体の奥底に存在しているものは、どのような色と形をしているのだろうかと想像した。それらはけして目にすることのできない肉体だ。(はじめに)
世界はこれからますます不景気になり、多くの人々が経済的な余裕を失っていくだろう。狭い空間で気持ち良く暮らす術は、意外に未来的だったりするのかもしれない。(p19)
フランスはやはり、芸術の都だ。
彼女たちは子どもの頃から絵画に親しみ、
モデルになることにも慣れ親しんでいるようだった。(p32)
彼女の言葉よよれば、「身体は社会のメタファーで、社会は身体のメタファーである」という。これはそっくりそのまま、ヌード写真の行方と重なっていくようだ。(p97)
つき合うって何?って、考えたらわかんない。キスをするかしないかってこと?(笑)でもそれが我慢できるのであれば、つき合わない方が楽な気がする。女友達でも、男友達でも、いろんな話ができたらそれだけで楽しいじゃないですか。でも、つき合うとなると別れたりする。友情だとわりと続くのに、恋愛というのは友情に比べて密度が濃いぶん、早く別れちゃう気がして、それは嫌だなと思って。(p136)
書店は行くと苦しくて。目に入ってくるし、なんでも。文字がすごいから雑誌のコーナーとか行けない。見たいものしか入ってくるなっていう気持ちのときがときどきあるから、最近は書店には行けなくて、つまらないです。(p081川上未映子)
数日後、軍鶏を抱えた美しい士官が戸口に立っていました。喜んだ主人は早々に2人の結婚式を取り行ないました。この時、棚にあった酒を片っぱしからグラスに注ぎ2人に飲ませました。この混合酒があまりにもおいしかったので軍鶏の美しい尾にちなんで"雄鶏の尾"(Cock tail)と呼ばれるようになり、それがやがてカクテルとなったといわれています。(p36)
役に立てなくて悪かったな、とわたしは言ったが、お前自身に危機感がないから娘は聞こうとしないんだ、と内心では思っていた。子どもは親のことを見ている。生き方を見ているのだ。生きていく姿勢、日常的に示す価値観をじっと眺めている。日頃危機感を示していない親が、「危機感を持て」と言っても、子どもにはまったくリアリティがない。(p78)
「ちんかめは、やっぱり、発明だと思った」リリー・フランキー
ピクトとは、すなわち「被苦人」である。
でもライブで忙しいのが、いちばんいいし。
なんかね、音楽に関してはどんだけ勉強したとしても、感情がいちばんなので。そういうことを考えると、職人っていうのは当てはまらないかなと。
せり上がって、人が張りついてるみたいで、人の壁みたいに見えるんですよ。で、私は目がいいにしても、表情までは見えなくて。それで人間悪いほうに考えるところがあったりしますんで、みんなの顔が、目が点々とこうなってるだけ(手で目と口を書くしぐさ)に見えて。
何がいちばん大変かと考えると、それは生きるという意味でも、「続けること」なんですよ。
1284年6月26日、ドイツのハーメルン(Hameln)の町に一人の笛吹き男があらわれ、130人の子供達を連れて失踪してしまいました。
踊り狂っているかのような現代のカーニバルにもあの笛の音は聞こえているはずです。
例えば目が「魂への窓」と考えられているように、窓は家の「目」とも言えるでしょう。