2008年02月24日

0304『一億三千万人のための小説教室』

★★★★4
一億三千万人のための小説教室 (岩波新書 新赤版 (786))
一億三千万人のための小説教室 (岩波新書 新赤版 (786))
高橋 源一郎

25peso | もろもろのこと 2004.10.30でこの著作について触れているので、その頃初読したのだろう。
あの頃の文章をリロードしつつ。

高橋氏がNHK「課外授業ようこそ先輩」で授業したときのことを書かれていて、そのときの宿題、「まわりの人に文学とは何かを聞いてきなさい」の、生徒たちの回答がおかしくて笑えた。
教育なんだ。
でも、高橋氏は途中で「教育と文学はまったく反対方向を志向するものである」と述べる。
小説は、自由で、右脳的だ。
でも、モラルの低下とか問題になるけど、自由って、そのさじ加減は難しいのよ。

「ぐっと短いあとがき」で、カッコなしの小説と、カッコありの「小説」とが比較される。
銀河星雲の中心にある濃厚な星の群が小説で、そのまわりの星屑やガスのようなむすうのことば、これが「小説」。
 「小説」とは、小説の素になるもののことです。
(…)
 小説の歴史は、その星屑やガスが、すなわち「小説」であったものが、小説というものに変化してゆく歴史でした。(p181)
これがすごく、ぱーん、と、突き抜けるような感じがした。

ことばは現実世界のもやもやに、いろいろと名前をつけることで、人間にそれを認識させるものだ。
例えば、これが本、これが椅子、これがニンゲン。
時には目に見えないものも、神、心、愛。
小説作品もそうで、現実世界(高橋氏のいう「小説」)のいろいろなもやもやに形をつけて、題名というインデックス(*1)をつけて、この現実世界の空気、雰囲気、事件、関係性などをひとかたまりにして、目に見える形で読者に提示することなのだなあ!と思った。

それは名詞的な働きを持っていて。
例えば、
椅子:足があって人を座らせるもの、木であったり、四つん這いになった人間であったりもすることがある。
というふうに、「椅子」という名詞のことばは、ある一定の事実をコンテンツとして内包する。
小説作品もそうで、
ねじまき鳥クロニクル:夫婦の関係と歴史と日本とのなんやかや!
といったひとつの読書経験コンテンツを、「ねじまき鳥クロニクル」という名詞のことば、この題名が内包するに至る。
読書して読み込んで立ち上がったり、すかさず忘れたり、泣いたり、笑ったりしたその体験ぜんたいが、まあとりあえず題名のもとにひとつ、コンテンツとして存在しはじめる、それが小説なのではないか。
小説というのはことばの羅列、ことばの氾濫、キャラクターたちの複合、事実事件の複合で生まれてくるとても複雑なものだが、それらが最後ひとつの形として閉じた円環、作品になって題名のもとに鎮座するとき、
(A)椅子:(B)足があって人を座らせるもの、木であったり、四つん這いになった人間であったりもすることがある
というふうな、新しい経験、(B)に当たる認識や経験のところの新しい創造、となるのではないか。
そんなことを考えた。

*1インデックスコンテンツ論考参照
posted by B&M at 19:56 | Comment(0) | TrackBack(0) | 創作 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
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