
ゆとり教育から個性浪費社会へ 岩木秀夫
難しい本だった。
「ゆとり教育」で培った、豊かな人間性を表すはずの「個性」は、いつのまにか競争に生き残るための道具と変わってしまうのだ。
これらの、いわゆる対個人サービスと呼ばれる各種サービス産業の発展は、それまで家族のなかや夫婦のあいだでいとなまれてきた、食事、団らん、家計管理、セックス、生殖、子育て、老人介護などの活動を市場での取引対象にうつし、かぞくのつながりをゆるめます。(p188)
第三次(サーヴィス)産業の勃興、その中で消費者としてもお決まりの振る舞いを求められる我々(マクドナルド社会)。
「個を確立した個人が、ボランティアやNPOで公共に参加(p218)」し、「ぶ厚いミドルクラスが……国家社会を、官(政府)と協力して、理性的・合理的に運営するようになる(p219)」社会はやってこず、「とり散らかったじぶんの身一つの人格を、どうやってひとまとまりに保てるのか、それで手一杯な状況(p219)」になっている、という指摘。
漱石から続く「個人主義」の考え方で生まれた、我々日本人の「自我=アイデンティティ」。
一人一人が大切な個人、個性。
しかし、日本社会の中において、それは有効に教育され、有効に機能しているのであろうか?