
使いみちのない風景 (中公文庫)
稲越 功一,村上 春樹
「住み移り」を生業とする者の、写真付き旅行的エッセイ。
文庫版には「ギリシャの島の達人カフェ」と「猫との旅」がついている。
もう少しつっこんで言うなら、「住み移り」という行為には<たしかに今は一時的な生活かもしれないけれど、もし気にいれば、この先ずっとここに住むことになるかもしれないのだ>という可能性が含まれている。僕はそういう可能性の感覚を、あるいはコミットメントの感覚を、愛しているのかもしれない。
読む気分にもよるのかもしれないが、今回読み返してみるうち、あれ、おかしいな、と思った。
その写真たちは、いや、その「種類の」写真たちは、その昔、僕を焦がし、僕を強く惹き付けて離さなかった。
僕はいつもどこかに行きたかった。
でもだんだんと大人になり、職が決まり、骨を埋めるところが決まった。
僕はもうどこにも行けない。
でも、たぶん、今はとりあえず、満ち足りているのかもしれない、と思った。
どこかに消えてしまいたい、というような思いは消え、今僕はここにいて、世界の中心だ、と思える。
少なくとも僕という人間のための世界では、中心にいる気がする。
というような思い込みをできるようになったことは、大変幸せなことである。
よかった、よかった。
そのうちまた、やってくるのだろうか?
昔のような、焦がれるような思いが?
僕は今、近くはじまる新しい環境にちょっとどきどきしている。
日常が、旅よりもエキサイティングな時期なんてそうそうない。
年齢の25という数字も魅惑的だ。
こんな時期は、そうそうないんだろうな。
でも結局のところ、それは物語にならなかった。
それはあくまで使いみちのない風景のままにすぎなかった。
でもそれとは別に、その作業は僕の中に、まったく違った物語のようなものをもたらすことになった。その一連の文章を書きおえたあとで、僕はすぐに別の物語に取りかかった。
その部屋の風景はたぶん僕の中で、別の風景に結びついていたのだろうと思う。
(これが、あの長編の誕生した瞬間だそうだ。)
「使いみちのない風景」は、『回転木馬のデッドヒート』の、「澱」のようなものに、似ている。